そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

とてもつらい

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台風一過についての雑感、台風の「嫌いではないところ」

今日から、質問箱でもらったお題について、雑記を書いていこうと思う。
できるだけ毎日更新したかったブログが、最近の妙な写真ブログもどき化によって著しく滞っているためである。
なんだよ、今年も折り返し地点を過ぎて、ゴールが見えつつあるのに3回しか書いてないじゃん。

……いや、写真ブログ化は大した問題ではない。文字通りTwitterにうつつを抜かし、140文字以上の文章が書けなくなったのが悪い。
最近はキーボードを叩いているよりも、iPhone6の4.7インチの画面でフリックしているほうが、脳みそが冴えてくる始末だ。

まあ、もともとついていないも同然の貧弱ブレインが冴えてきたところで、世界に何の価値も付与できていないのは言うまでもないが、それにしても「いいね!」の数字を見て、世の中に何かを発信したような気持ちになっているのはあまりに虚しい。

そんな虚無感を埋めるために、空白の8か月に文字を書きなぐるようにブログを更新したかったので、ツイッターでお題を募集したところいくつかお題をもらうことができた。
まあ、なんとか今週分はなんとかなるかなあ、と皮算用をしているけど、引き続きご協力をいただけると幸いです。
何卒よろしくお願いします。

tonkotutarou(Twitter)→

質問箱→

peing.net

 

台風の「嫌いではないところ」

そんなわけで、一発目は台風の話。
非常にセンシティブな時期に、デリカシーを母親の胎の中に忘れてきたような僕が書くべきではない話題ではあるけど。

 

こんなことを言うと怒られそうだけど、いい歳して台風が嫌いではない。

いいじゃないか、好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いだ。
そもそも僕の精根がねじ曲がっているからか、嫌いなものについて書くと反感を買うし、好きなものは好きであること自体が反感を買ってしまう。
どのみちアッカンベーをされるから、いっそ好きな切り口で書いてみたい。

……と、まあ、今回みたいな大きな台風が過ぎたあとに、こういう書き出しを選ぶこと自体が品性の下劣さを表している。
それでも、僕自身が僕自身の下劣さを十分に痛感するくらい、今回の台風は酷かった。

 

これを書いている今この瞬間も、僕の知人でも(友人ではない)、未だに停電で不便をこうむってる人や自宅のガラスが割れた人が何人もいる。
なかでも関空で島流し状態になってしまった人は、悲痛な現地の状況の手記をFacebookにアップロードしていた。

 

そういうものを読んでいると、のんべんだらりと空調の部屋でインターネットができている僕が、同じ関西人であるのか不安になったり罪悪感を感じたりもする。
なにか、僕の生活にもしかるべき爪痕があって、彼らと痛みを共有できたら、いくぶんこの気持ちもマシになるんじゃないかとも思う。

しかし、そんな気持ちをいったん置いておくとして、僕は台風のもつ災害としての存在感が嫌いではない。おそらく、僕自身が災害の被害者となったことが無いからだろう。

どういうところが嫌いではないか。

台風が予測される災害である点と、一方で台風一過後はいくぶん空気が綺麗になる点である。

まず、台風はその発生と予測進路が、実際に接近する何日も前からあらかじめ予測がされている。

この台風がもつ「予見性」というのは、先日の大阪の地震のあとで改めて認知した。
地震というのは、僕たちにとってほぼ予測ができず、察知をすることすらできない災害である。
運が良ければ、緊急地震速報によって数秒から数十秒前に知ることはできるものの、実際に揺れ始めてもそれがどんな規模でいつまで続くものなのか、揺れ終わるまで理解することすらできない。

もちろん、緊急時の備えがあれば、地震の場合でもストレスや不安をある程度は軽減することはできると思う。
それでも、地震がいつ、どこで、どのくらいの規模で起こるのかは、今のところは誰にも分からない。

僕は地震のニュースを見るたびに、進撃の巨人の一話でアルミンが言ったセリフを思い出す(凡庸な連想だな)。

「100年 壁が壊されなかったからといって、今日壊されない保証なんてどこにもないのに…」

というアレ。
論理なんて通じず、理不尽さを訴えても誰にも届かない。だからこそ備えるしかないし、それがいつきても不思議ではないことを自分に言い聞かせるしかない。
そういう性質をもつ災害が地震なのだと、大阪の震災のときは身をもって思い知らされた。

地震が抜き打ちテストならば、台風は定期試験のような災害である。
被害を受けることは避けられないが、備えや憂いをもつことができる。
どちらも、試験のように準備すれば乗り越えられるものでもなく、合格するものでもなく、得られるものも無いけれど。

「数日後に自分が何かを失う可能性がある」という状態が、僕はわりと嫌いではない。頭の上にギロチンが固定されている気分というか、それによって自分が何をどうするか選択する余地を感じることができる。
そういう限定的な意味合いにおいて、僕は台風の到来がもつ予見性に畏怖すら感じる。
おそらくそれも、僕自身が災害の被害者となったことが無いからだろう。

2点目の空気の綺麗さについては、言うまでもない。
あれだけ酷い風や雨が吹いたあとで、それで大阪の澱んだ空気が浄化されないのならば、それはあまりにもアンフェアすぎるし、救いがない。

浄化と言えば、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中にこんな一説がある。

「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺にいろんなものが落ちていた。波で打ちあげられたんだ。想像もつかないようなものが、いっぱい見つかる。(中略)どうしてそんなものが浜辺に打ちあげられるのか、僕には見当もつかない。でもそういうのを探すのがとても好きで、台風が来るのが楽しみだった。たぶんどこかの浜に捨てられていたものが波でさらわれて、それがまた打ちあげられるんだろうね」

「海から打ちあげられたものはどんなものでも不思議に浄化されているんだ。使いようのないがらくたばかりだけれど、みんな清潔なんだ。汚なくて触ることのできないようなものは何ひとつとしてない。海というのは特殊なものなんだ。僕は自分のこれまでの生活を振りかえるとき、いつもそんな浜辺のがらくたのことを思いだす。僕の生活というのはいつもそんな具合だった。がらくたを集めて自分なりに清潔にして別の場所に放りだす——しかし使いみちはない。そこで朽ちはてるだけだ」

台風が過ぎ去った後、おそるおそる家のドアを開けたときに思い出したのがこの一説だった。台風そのものについて言及された文章ではない。あくまで、この文章を思い出したというだけで、それ以上も以下もない。
今日の町もガラクタであふれていたけど、それに意味を見出すつもりもない。

 

 

台風が過ぎたあとで、人々が家の外に出て、自分たちが巻き込まれたものについて改めて認識をする。
何人かの人々は、諦めたような表情で家や社屋の周りを掃除している。

駅へ向かう道すがら、通り過ぎた駐車場にハイエースが停めてある。車の前で、職人さんがタバコを吸いながら工事の予定について電話をしている。通りすがりに聞いただけでも、工期が詰まっていることや朝から問い合わせが続いていることが分かる。

 

そういう景色を眺めていると、街というのは人々の様々な生活を内包し、その仕事によって構築された有機的なものであることが分かる。

それは僕に、精密機器を作る自動化された工場を連想させる。ピンセットのような機械の腕がいくつも基盤の上に伸びてきて、目には見えないパーツをウエハースの上に載せていく。
その機械たちが、何を作っているのかはすぐには分からない。出来上がった見慣れた製品を見て、僕は初めてその全容を知る。
もちろん、何かをひとつひとつ組み上げていくのと、破壊されたものを修繕していく作業では、その意味合いが異なってくる。そもそも人間は機械ではない。

僕が言いたいのは、そういう細かくて全容が知れない仕事によって世界が成り立っていること。
それから、そういう細かい作業の意味合いを知ったときに、それを(結果的に)内包するシステムに対する感心のようなものが生まれるという点である。
こういう感心は、普段の生活ではなかなか生まれない(僕が鈍感なだけでもある)。何かしら、センシティブな気持ちにとらわれているときに、ふと目について気づくものだ。

例えば、これまでにない大型台風という暴力装置によって、街が損なわれたあととか。

 

そんなことを考えながら、駅に着いたところ、相変わらずダイヤがひどく乱れていた。
何人かの同僚が今日も出社できない状況にあるということで、僕もどさくさに紛れて在宅勤務をすることになった。
長々と書いてきたけど、たぶん、台風も悪くないと思ったのはこの瞬間が一番強かったと思う。

来た道を戻りながら、がれきの撤去作業をしている職人さんたちを見ていると、非常に後ろめたい気持ちになった。