そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

とてもつらい

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視野を広げる買い物がしたい、いや、カメラのレンズが欲しい

主題や意図をはっきりさせて構図を決めて、カメラの設定を選び手ブレしないようシャッターを切る。
それだけのことなのに、どうしても自分の写真が良くならない。

 

もちろん漫然とシャッターを切ってはいけない。一方で、考えて撮ろうとすると手が止まってしまう。
だからそんな葛藤をしないように、写真を撮るためだけに美しい景観を観に行こうとする。
この前の若草山なんかまさにそれだ。
しかし、それはそれで目的と手段が逆転してしまう感じがする。
すなわち、写真を口実に美しい景観を観に行くことは意図として正しい。
しかし「写真を撮らなければならない」と強迫観念に刈られて、機材を消費するためだけに写真を撮るのは正しい行いなのだろうか。

 

とはいえ、日常から「瞬間」を切り取るには、少なからず日常から面白いもの、自分の意図を反映できる風景を探さなくてはならない。
では、美しいものを見つけられない人はいい写真が撮れないのだろうか?

あるいは、美的感覚が平均より劣っている人の場合、その人がどれだけ好きなものを正しい技術で意図した通りに撮ったとしても、それはいい写真にならないのか。
カメラを使えば、僕は自身の視界を「瞬間」として外部化できる。しかしどれだけ、自分の中から櫂い出し外部に固定されたとしても、それはあくまで自分が撮ったものである。
たまから、どうも他人事のように客観的に捉えることがまだできない。

 

まあそれでも、カメラを持ち歩くように心がけてから、日常のさりげない場面を写真におさめたくなる瞬間が増えた。
例えば、公園で親子が手を繋ぎながら階段を降りている場面だったり、街路樹の幹にできた屈強なコブだったり、古いトタン葺きの建物に挟まれた路地裏だったりする。
ただ、それらはあくまで僕がカメラを手にして意識を向けているときだからこそ目に映る風景だ。
逆に言えば、普段の僕の世界・視界は限定的な状態であり、その限定的な世界で生きてきたと言える。
現にiphoneと財布だけ持ってコンビニに向かうときの僕は、そんな被写体たちに目をくれることもない。
限定的な自分の視野にゾッとして、カメラをカバンにしまうことも少なくない。

 

「ファインダー越しの私の世界」などと言うけれど、実際2:3のごく限られた枠を与えられることで、初めてこの世界から、眺める価値のある美しいものを僕は探すようになった。
僕の世界は狭い。認識的に限定されているだけでなく、機材の面でも大きく制限されている。
明るいレンズは90mm換算の単焦点レンズのみだし、標準ズームレンズは使いこなせない。
もちろん僕と同じ環境で魅力的な写真を撮っている人もいるから、これはひとえに僕の実力と視野の狭さが原因である。


でも、そんな視野の狭さを実感した今だからこそ、レンズやカメラといった機材を揃えていくのも悪くない気がしてきた。
少しずつ少しずつその生存領域を広げる手段として、道具を手に入れてしかるべきであるように思ってきた。
では、どんな道具を買うべきか?こうやって考えて、戦略を立てていくのは楽しい。
ナイフ一本で無人島に上陸して、屋根のある家を建てているような気分だ。

 

カメラ関係のアイテムって、デジタルな進化を遂げる一方でアナログな制約があって面白い。
明るくて味があるけれど、決まった視野でしか撮れない単焦点レンズ、画角は自由なのに画質がトレードオフになるズームレンズ。
カメラという道具が、その技術的限度すら愛されている理由もなんとなくわかる気がする。僕のようなひよっこが言う言葉ではないけれど。

 

というわけで、ブラックフライデーのセールをただただじっとうずくまって待っている。
OLYMPUSのキャッシュバックも始まったし、いっそ高いレンズも検討してみたい。

今はひたすらPROレンズの評判を読み漁っている。誰か買ってくれないだろうか。

 

 



まあ、とうぶんはこうして狭い世界でウンウンと唸って、カメラ片手に散歩しながらボツ写真を量産するんだろうなあ。

漫然と撮らず、手を止めず、良い写真が撮れなくても、足を止めることだけはしないように気をつけたい。


※ちなみに、この記事は「それどこ大賞」に向けて下書きをして、結局間に合わなかった。