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そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

とてもつらい

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シン・ゴジラ 本編を3回観たのでそろそろ感想を語る

雑記 雑記-お出かけ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラの延期がきまった。価格にビビって購入に足踏みしていた僕のような人間に対して、検討時間をさらに与えてくれるわけである。
感謝しかない。ありがとう、庵野秀明監督。

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 


この機会に便乗して、そろそろ僕の感想を書こうと思う。僕はこの映画を結局3回観た。
実写嫌いの僕が、通常上映で1回、IMAXで2回の合計3回、わざわざ映画館に足を運び予告編を押し付けられ、さらに泥棒扱いされてまで鑑賞する。異常事態だ。

 

そもそも僕は映画嫌いである

もっとも、一つの映画を3回観たのは決して初めての事ではない。ラブライブ!school idol movieだって3回観た。どこが面白いのか分からなくて、それを確かめるために何回も足を運んで何回も寝た。

 

だが、シン・ゴジラを何度も鑑賞したのはラブライブ!とは全く違う理由がある。すなわち、
「どうしてこの映画にここまで惹かれてしまうのか」
僕が確かめたかったのは、そういうことである。
なんであんなに面白いんだろう?

 

アニメだった

上映が始まって、まず引っかかったのは、異常なカット割と字幕。僕はオタクではないが、「エヴァかよ!」と思わずツッコミたくなった。
専門用語ラッシュと字幕の物量で押し通すあの会議シーンは、ついていくのに必死になるとともに、これから起こるであろうパニックシーンに心がウズウズしてしまう。
一度の視聴時はこの時点で、
「はっはーん、アニメのやり方を実写に持ち込んで 『これが映画やでw』と庵野秀明監督が現場をしっちゃかめっちゃかにしてるな」
とか、上から目線で高まっていた。


この徐々に明かされる第一形態から多摩川俎上直前のもどかしさがクセになる。
僕たちスクリーンの向こう側の人間にとって、ゴジラは既知の存在だ。
ゴジラシリーズに詳しい人間でなくても、怪獣としてのゴジラは誰もが知っている。
だから、尾頭さんの分析の正しさも理解できる。
それだけに、「海底火山の噴火」や「水蒸気爆発」といった仮説、上陸は万が一にもあり得ないと言ったフラグに対して、もどかしさと優越感を持って眺めることになる。
"バーカ、それは火山じゃなくてゴジラだよ。巨大不明生物だよ。上陸するよ、何言ってんのwさっさと上陸しろよ"
といった感じにずっとツッコミを入れながら、蒲田上陸シーンを迎える。
ここまでオーバーじゃなくても、僕と同じ気持ちだった人はいるんじゃないだろうか。

 

鎌田くんは神


そんな傍観者目線だった僕たちの態度が、「えっ、鎌田に!?」のあのシーン以降は完全にひっくり返る。唖然とする。
「上陸はありえないって言ってたのに…」
その言葉が頭をリフレインする。
そこには僕たち観客にとっても、未知のゴジラが映し出されているからだ。
もちろん話の流れ上、鎌田くんがゴジラであることは分かる。だが、あんなもの予告編には映らなかった。誰も見なかった存在だ。

まさに想定外の情報が観客を襲う。
ああ、現実と虚構はこんなところでひっくり返るんだ、と頭の中で痛感する。
それと同時に、浮き足立った脳が着地点を探るため、画面に目を釘付けする。
避難する住民、迫り来る土砂瓦礫、それを眺める我々観客。想定外の事態に情報が把握できず、画面の前で混乱するしかないあの感覚。
それに僕は覚えがあった。言うまでもない。東日本大震災だ。

僕は震災の時、たまたま日本にいなかった。その後も関西在住だったから、震災を肌で感じていない。
僕にとって東日本大震災は、最初から今に至るまでテレビの向こうの出来事であり、現実だった。

それだけに、シン・ゴジラの鎌田くん上陸シーンは、当時テレビ観戦していた震災を思い出す。
他人事であると同時に、本来自分を内包しているはずの国が破壊されていく姿をまじまじと見る感覚を思い出す。
上陸前に、迫り来る瓦礫から必死で逃げる人の姿があったけれど、あれなんかまさにそうだ。

ただ見ているだけしかできなかった記憶を追体験させるという点で、鎌田くんの不気味さはあの映画一番の見どころではないかと思う。

僕はラバーストラップを予約した。

 

シン・ゴジラ 第二形態 つままれストラップ

シン・ゴジラ 第二形態 つままれストラップ

 

 


タバ作戦

そして、ゴジラ一時撤退後、長い会議シーンと共に明らかになるゴジラの仮説、そして再上陸後の自衛隊の総力戦のアツさよ。

その間に石原さとみ?ああ、アニメキャラだと思えば別にそんなに違和感がないと思う。叩かれる覚悟でよく頑張ってはったよなあ。

自衛隊の総力戦シーンは2回目以降僕は涙を流して見ていた。何も軍事オタではない。
劇中何度も出てきた、ゴジラとヘリの引きのシーンでの絶望的な大きさの差に泣いてしまうのた。
耳に響くギャンギャンと唸る射撃音の生々しさ、まるで効果がないままに、大破する戦車。
それでいて「攻撃だけが華じゃない」と渋いセリフを言わせる場面、全部が辛すぎて泣いた。
プリキュアガンバレーの気分だよ。

まあその応援も虚しく、結局その後キレたゴジラの内閣総辞職ビームによって東京はクルクルパーになって第一部終了。

 

 

矢口と日本とは

 

立川予備施設に移ってからは、核兵器投下のカウントダウンを前にひたすら頑張る巨災大メンツが印象的だっが、この辺りから主人公・矢口の度々セリフに固有名詞が登場することになる。
「日本」だ。この映画にとって「日本」ってなんだ。
まず政治家である矢口たちにとって「日本」はそのまま「自分たち」に置き換られる。「国民」がいて、日本の実務に携わる人間だからだ。

そしてスクリーンの中で破壊寸前の「日本」は巨災対メンツの必死の働きでハイパーインクレディブルパワーを発揮し、見事ゴジラを凍結する。

エンドロールが流れて、観客が口々に感想を口にする。
「日本すげぇ」とか「米国いらんことするなよ」
とか、なんとか。

 

個人的には、この最後の数十分の日本推しに違和感があった。
矢口にとっての「日本」は、僕たち観客の日本では無いからである。
矢口が語った現場は架空の現場であり、怪獣はあくまで架空である。
確かに、「日本は集団で立ち向かう国」と美談を導き出してもいいだろう。
だが、この話が最後に残したものは、
「(観客たちの日本にとっても、)やらなければならいことがたくさん残っている」
という現実では無いだろうか。

ヒーローも不在、理想の政治家も不在の僕たちが、地を這い泥をすすってこれから生きていかなければならないことに対する、オープンエンドであるように思った。

 

だからジ・アート・オブ・シンゴジラを買うぞ。


そんな目まぐるしく感じる困惑と衝動を改めて楽しむため、ジ・アート・オブ・シンゴジラの延期、あたしは待たせていただきます。いつまでも待ちます。

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 

この夏、僕たちが感じたものを風化させないために。あれを本気で作った人たちの思いを感じるために。
できれば、完成の台本込みを読みながらIMAX大劇場で観たいものだなあ


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