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そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

とてもつらい

音楽や小説が好きな人が書いてます。主なカテゴリ↓

3.11の当日、トルコにいた僕の話

5年前、2011311日、僕はカッパドキアのヒルトンホテルにいた。

10日間のトルコ周遊ツアーの6日目だった。

トルコと日本の時差は7時間ある。

だから僕の感覚ではあの震災は、朝の7時45分頃に起こったことになっている。

 

トルコが親日かどうかは良くわからない。パッケージ化されたツアーで観光地をめぐって、それを基準に判断はできない。

ただ、少なくとも、トルコの人たちはとても優しくしてくれた。

母国が災害の渦中にある僕たちに、見返りを求めない励ましをくれた。

 

あのときたくさんのことを思って、考えたはずなのに、そのうちの多くを忘れていることにふと気づき、この日記を書いた。

ただの再現日記である。

何の教訓も無い。読み応えもない。文章は下手。

ただ、僕が過ごした2011年3月11日について、

ありのままに書く。どう感じたのか、どこにいたのか記す。

 

他の人にどう映るかわからない。

ただのトルコ旅行記に見えるかもしれない。

それでも、僕にとっての震災はトルコ旅行の記憶と不可分だ。

 

 

 

 

僕は20歳の大学生で、10日間くらいのトルコ周遊ツアーに参加していた。

 

イスタンブールをスタートして、バスでトルコ各地を巡る。

円高ということもあって、とびきり安かった。

オプションと名物品で儲けるタイプのツアーである。

それでも泊まるホテルはどこも良かったし、日本人の添乗員もトルコ人ガイドもしっかりしていた。

一日のほとんどを観光バスの中で過ごすことを覗けば、ストレスはほとんど無い。

その移動中の時間も、窓の外には見慣れない風景が続いて飽きない。

おまけにその年は、3月のトルコには珍しく(らしい)雪が多かった。

パンフレットの写真とは違う、雪景色はちょっと特別な気持ちにさせた。

 

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全体を通じて、嬉しいことが多い旅だった。

行く前は不安だったけど、行ってみると新しいことばかり楽しいことばかりだった。

 

 

そして、6日目の朝食後、僕がトイレでウンコしているときに東日本大震災が起こった。

 

その日の午前は自由時間が設定されていた。

僕は仲良くなった他のツアー参加者と共に、ホテル近くの町を観光するつもりだった。

 

朝食を済ませ、身支度をし、ウンコしていたときである。

iphonetwitterを開くと、ちょうど日本で地震が起きたようだった。

タイムラインは地震の速報で埋まっていた。

 

・どうやら東北あたりが震源らしい

・東京も凄く揺れている

・凄い余震がまたくる

・めちゃくちゃ大きい

 

激流のようにタイムラインが更新される。みんなが動揺して、

情報があちらこちらを行きかう様子が見える。

 

僕はそのツイッター上のカオスを、トイレの上でただ眺めていた。

地震の規模や被害の程度は分からない。それでも、冗談にはできないようだ。

「トルコでウンコしてたら、地震が起きた。俺のウンコで日本がヤバい」と呟こうとして、そっと投稿画面を閉じた。

 

嫌な胸騒ぎがするタイムラインだった。

そのまま情報を集めたかったが、

僕は僕で、ホテルを出る時間が近づいていた。

今日一緒に散策するのは、同世代の女の子たちだ。待ち合わせに遅れたくない。

第一、どうせツイッターで正しい情報は伝わってこないのだ。

 

 

 

集合場所のホテルのロビーに向かう。僕が最後だった。

町へ向かうタクシーの中で、一緒に行動する女の子たちに地震のことをちらりと話した。

 

「ついさっき関東で大きな地震が起きたらしい、」

 

彼女たちはまだ知らないようだった。関東から来た人もいない。

なんだかあまりピンときてないようだった。

少しだけ心配するフリをしたあと、話題はすぐ観光の話に戻った。

日本にいるとき、僕も地方の地震に対してこういう反応をしていたっけ。

結局のところ、自分の生活に影響が出る規模までは、災害もテロも他人事だから。

 

 

 

僕らが向かう町はギョレメ公園近くの小さな街だ

タクシーで20分ほどの距離だったと思う。

 

町に向かう途中、僕らはギョレメ公園のキノコ岩の一群を通りすぎる。

後部座席で、女の子が、わあと声をあげる。

そんな日本人に気を利かせて、運転主さんがスピードを落としてくれる。

僕と目があうと、彼はにっこりと笑ってくれた。

 

目の前に広がる奇妙な自然の営みの産物や、トルコ人の暖かさが身近すぎて、

僕の頭の中から地震の不安がじりじりと離れていった。

 

町に着いて、運転手さんにお礼を言う。

また3時間後くらいに、ここで待ってくれるらしい。

 

町は全体的にこじんまりとしていた。ゲームに出てくる町なら2つ目か3つ目の町ってとこだろう。

初期装備よりちょっと強い武器と防具が売ってるだけ。あとは攻略に何にも影響しない。

いかにも田舎の町。小さなスーパー、雑貨屋、おもちゃ屋とか、生活感があるお店が多い。

お土産のお店はまだ閉まっていた。飲食店も見当たらない。

 

そんなわけで僕たちは、ふらふらとした散歩をすることにした。

こういう過ごし方は観光地めぐりよりも外国を身近に感じられる。

 

 

雑貨屋で不思議なデザインの文房具を見たり

スーパーでお菓子を買ったり。おもちゃ屋にはピカチュウのパチモノがいた。

 

僕たちに接したトルコ人はみんな笑顔だった。

おじさんもおばさんもみんな優しい顔をしている。

子供なんか、日本人を見ると手を合わせてお辞儀をしてくる。

「コンニチワ!」だって。僕らも「こんにちは、メルハバ」と返してみる。

不思議な場所だった。ニコニコしていれば、それだけでいろいろなものが通じ合う。

 

そうやって1時間ばかりうろつく中で、小さな工芸品と民族楽器のお店に踏み入れた。

僕はあちこちで見かけていた不思議な弦楽器が気になっていて、

それがどうしても触ってみたかったのだ。

 

 

 

店番のおじさんはとても険しい顔でラジオを聞いていた。

古臭いポータブルラジオからは、何か速報のニュースが流れている。もちろんトルコ語だ。

僕たちは、そんな真剣な顔のトルコ人を見るのは初めてだった。

 

店に入ってきた日本人を見ると、彼は出し抜けに英語を話し始めた。

 

「おい、君たちはジャポンか?ジャポン、ニュース聞いたか?

 ジャポンはオーケーか?ランドが・・・・・・そうそうビッグなアースクエイク!そしてウェーブ!」

 

片言で話す彼の表情は真剣だった。

それを聞いて、僕らはようやく朝にちらっと話したことを思いだした。

もちろん、僕らは今朝チラ見して、世間話した程度の話しか知らない。

 

地震が発生して1~2時間くらいだろうか。

それにもかかわらず、こんなトルコの片田舎のおっさんにまで、

日本の地震について速報が届いている。

 

どうやら、本当に、日本でとんでもない大災害が起きているんじゃないだろうか?

ビッグなアースクエイク。それに・・・・・ウェーブ?

 

「でもオーケー!トルコ人はジャポンをヘルプするよ!それより、

 この楽器は見た?これはサズっていうんだ。音、聞いてみる?」

 

僕らが動揺しているのが分かったんだろう。気を利かせて話題を変えてくれた。

それから、僕らの目の前でサズを演奏してくれた。

微分音を使った不思議なチューニングと音階、音色もあわせていかにもイスラムっぽさがある。

僕たちの拍手に、ニコニコと子供っぽい笑顔で返してくれる。

どうやらこのおじさん、品物を売るよりも演奏するほうが好きみたいだ。

 

その後もおじさんに笛を聞かせてもらったり、何か民芸品を見せてもらった。

ほっこりとした気持ちで店を出るとき、おじさんは僕にだけ耳打ちをした。

「なあ、本当にジャポンはオーケーだからな。トルコ人はヘルプするよ。ティシュクレ!」

 

 

ちょうど時間だったので、僕らはそのままタクシーでホテルに戻った。

(帰りもキノコ岩をじっくりと見せてくれた)

ロビーで、他のツアー参加者に合流する。

午後からのツアーは、洞窟レストランでの昼食、いよいよラクダ岩を見にいくことになっていた。

 

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ロビーでトルコ人ガイドが説明を始める。

「まだ速報だけど、日本で大きな地震が起きたみたい。

詳しいことは分からないからひとまず私たちは今日のラクダ岩を楽しみましょう」

 

地震と聞いて、ツアー参加者は顔を見合わせる。

だけど大多数の人は、ガイドに従い、それについて後回しにすることを選んだようだった。

なにそろ、今日のカッパドキア観光がみんな目当てなのだ。

誰も彼もそわそわしている。わざわざ日本のことを考える気にはなれないのだろう。

 

 

一方の僕は、次第に地震が気がかりになってきた。

民芸品店のおじさんの言葉が頭から離れなかった。

アースクエイク。ウェーブ、ジャポンはオッケー。

 

僕はバスでの移動中にまたツイッターを見た。

データローミングだと一日1500円ぐらいかかる。

だけど、どうしても日本の様子が知りたかった。

安心して、後回しにしたかったのだ。

 

 

タイムラインは、発生時より更に混沌としていた。

次々と災害時の知識や連絡先、被害状況がRTされている。

夜の過ごし方、食料の買占め状況、ニコニコ生放送の非会員への開放、

ギークハウスデマなどなど。

 

facebookでは、海外の友人がprayforjapanという趣旨で次々と発言をシェアしていた。

 

 

犠牲者数の速報・予想はその時点で数千人規模だったと思う。

ツイートによって2倍も3倍も数字がズレていた。

福島原発で大爆発が起きたようだった。

気仙沼という場所で、火災の被害が甚大らしい。

それから、かつてない大津波が次々と各地を襲っているようだ。

 

僕が生きてきた中で経験したことがない、本当の大災害が起きている。

関東の友人は大丈夫だろうか。あいつ、東北じゃなかったか。

父の出張の状況はどうだろう。それから、それから・・・

 

iphoneが知らせてくる未知の災害と、頭に渦巻く不安で気持ちが悪くなってきた。

ふと顔を上げると、バスの窓の向こうには奇岩群が広がっている。

バスの前のほうで、おばさんが「飛んでイスタンブール」を歌っている。

いったい僕はどこにいるんだろう。

日本が大きく変化しているときに、僕はなんでトルコにいるんだ?

ツアーはまだ数日ある。この数日の間に、日本はどこまで変わっていくんだろう。

僕らが帰る頃、日本はどうなっているんだろう。

 

いよいよ気分が悪くなってしまって、その日の午後はあまり楽しめなかった。

iphoneの中のニュースは、もう僕が想像できる内容を超えていた。

かといって、目の前の絶景も、現実の色が無いように感じた。

何もかもが薄い膜に包まれているようだった。

災害の被害に遭ってる人に、何の手助けもできず、

トルコ旅行を堪能することに対して罪悪感がぐらぐらと沸いていた。

 

 

ぼんやりとしたままホテルに戻り、バイキングの夕食を取る。

そういえば料理の中に、簡単な握りずし、巻き寿司があった。

日本人たちに気を利かせてくれたらしく、醤油とワサビまである。

なかなか美味しかった。トルコ人なりの解釈が加えられていて、不思議な味がした。

トルコの子供の、「コンニチワ!」の舌っ足らずな響きに似ていた。

 

僕は寿司を食べてながら、ぼんやりと日本に戻りたくなってきた。

日本を離れて1週間近く経っているし、日程的にもそう感じる頃合だったのだろう。

でも、自分が本当に恋しい気持ちになるとは、予想していなかった。

そして、その恋しさの後に、どんよりとした不安がやってくることも。

不安がその身を地面に引きずりながらこちらに向かってくる。

ズルズルと音を立てて、耳鳴りのように頭に居座り続ける。

 

 

レストランを出たあと、エレベーターホールで男性のホテルスタッフに声をかけられた。

僕が暗い顔をしていたせいで、つい気になってしまったという。

彼はとても流暢な日本語を話す。

数ヶ月前まで日本語のスクールに通っていたらしい。丁寧で、知的な喋り方だった。

 

「やはり、地震のニュースのことが気になりますか?

気休めにはならないと思いますが、トルコ人は全力で日本を支援します。

トルコはすでにアフガニスタンを経由して、日本に支援隊を送っています。

みんなが日本を助けます。心配になるのは分かりますが、あまり落ち込まないでくださいね。

残りのトルコの日々も楽しんで。」

 

彼は、エルトゥールル号やイラン・イラク戦争の例も交えながら、こう言ってくれた。

 

 

その夜のテレビでは、どこの国の番組でも日本の地震について報道していた。

どのチャンネルを見ても、見慣れた日本の地図が画面に映っている。

コメンテーターが真剣な顔で説明をしている。言葉は分からない。

見慣れた僕らの国について、彼らはなんと言っていたのだろう。

 

しばらく見ていると、津波の映像が流れはじめた。

最初のうちは、ただの空撮映像だと思った。田んぼと住宅地だ。

それから、画面の端のほうで、灰色とも茶色ともつかない何かが動いている。

その何かに流されるように、民家が動き始める。ようやく津波であることに気づく。

本当に流されているのだ。車が。家が。そして人も。

画面が切り替わる。別の地域の津波が映る。道路をつたう濁流に、車が次々と消えていく。

唖然とする。何が起こっているのかがわからない。説明の外国語は耳に入らない。

 

 

僕は、番組表を見る。日本のメディアは見れない。

なんとか、NHK WORLDが見れるようだ。チャンネルを変える。

まず、赤や黄色で沿岸部を塗られた日本地図が映る。関東だけじゃない。

ぐるりと日本が一周塗られている。

英語のアナウンスは、警報の出ている地域を読み上げている。

なんとかプリフェクチャー、なにやらプリフェクチャー。淡々と響く。

アナウンスをバックに、ときどき映像が切り替わる。

闇夜の中で燃える気仙沼の火災が移る。他の地域の火災、

それから、また津波の映像。しばらくして、再び日本地図の画面に戻り、

アナウンスも一巡する。

その機械的なルーチンは、僕から現実感を一層奪っていく。

 

 

 

 

 

その夜はそのまま遅くまでネットを見たり、知人に連絡をしたりした。

友人は無事だった。父親の出張先は広島だった。

ツイッターは相変わらず、ジャンク情報が飛び交っていた。

FBを開くと、何人かの外国人のフレンドから心配するメッセージが届いていた。

 

ホテルのベッドの中で、僕を励ましてくれたトルコ人の声を思い出す。

「日本、オーケー」

「みんなが日本を助けますよ」

そんな言葉ですらありがたいくらい、僕は日本と、震災から遠くにいた。

僕の手の届く限りの安心感を、かき集めるような夜だった。