そりゃまあ僕も

20代会社員、男。音楽、カメラ、時事ネタなどの雑記日記です

とてもつらい

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三秋縋さんとloundrawさんによる小説『夢が覚めるまで』を読んだ

イラストレーターのloundrawさん原案による三秋縋さんの小説、『夢が覚めるまで』を読んだ。
loundrawさんと言えば『君の膵臓を食べたい』や『よるのばけもの』などの装丁をやっている新鋭気鋭今話題のイラストレーターさんだし、三秋縋さんに関してももはや説明するまでもない人気作家である。
そんな二人が原画展会場限定の小説を出すというのである。こんなもの地を這いずって泥をすすってでも手に入れなければならない

そんなわけで血を這って泥をすすったので、感想を書いていきたい。

『夢が覚めるまで』が特別な小説である理由

最初に『夢が覚めるまで』とは、いささか特別な小説である、という点に触れていきたい。

この小説はloundrawさんの短編アニメ「夢が覚めるまで」を、三秋縋さんが(頼まれてもないのに)小説にした作品である。


【自主制作】「劇場版アニメ『夢が覚めるまで』予告編」

 

 

そもそもはloundrawさんによる卒業制作による偽予告アニメ「夢が覚めるまで」の、断片的なセリフやストーリーをベースに三秋縋さんがストーリーを立ち上げて作った小説だったわけだ。

で、結果的にこの小説はloundrawさんの原画展「夜明けより前の君へ」の会場限定販売グッズとなった。

yoakimi.loundraw.jp

loundrawさんはそれ以前にも、小説『あおぞらとくもりぞら』のコミカライズ制作で三秋縋さんと関わっている。ちょうど今回の『夢が覚めるまで』は「あおぞらとくもりぞら」とは真逆の構図となるわけだ。
よって、人のクリエイターがお互いの配役を交換しあうように書かれた小説、という点で、この作品はちょっと特別な経緯をもっている。

 

いや、でも何よりも、loundrawさんの原画展の会場限定販売だったことが一番「特別」感を演出していたと思う。

 いや、マジで開場限定はつらい。発表された瞬間

ふざけるなよ三秋縋~~~!?!?!??

と叫んだもんね。地方在住民を安易に殺してはいけない

 

なぜ僕が手に入れられたか

原画展は9月17日までの期間限定、しかも場所が渋谷ということもあり、大阪のドブの底に住む僕は現地に行くことができなかった。

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しかしなにしろ敬愛する三秋縋さんの小説である。どんな悪いことをしてでも手に入れたい。どんな悪いことにも手を染める覚悟だが、できれば自分の手を汚さずに手に入れたい。

というわけで、関東在住のフォロワーさんを拝み倒し、良心にすがって買ってきていただいた。

 やはり持つべきものは恥を厭わぬ強靭な精神である。

人間は時として自身の無神経さに対してすら無神経にならねばならない。
唐突で恥知らずで無神経で傍若無人な僕のワガママをきいていただいて本当に頭が上がらない。
この場をお借りしてお礼を申し上げたいし、なんならこの記事は感謝を言うための記事であり、感謝を言うために作品の感想記事という体裁を借りているようですらある。

で、どんな小説だったか

端的で分かりやすい表現を使うと「いつもの三秋縋だった」としか言えない。

常日頃三秋さんの小説を読んでいて、この小説を読めなかった人も安心してほしい。要するに最高だったにすぎない。

あらすじは公式HPにまとまっている。

yoakimi.loundraw.jp

2013年春。その頃、僕は人生のエアポケットとでもいうべき場所に落ち込んでいた。原因不明の無力感に取りつかれ、すべてを放り出して、自分の殻に閉じこもっていた。おかげで恋人に見放され、不眠症を患い、亡霊みたいに夜の町をさまよう毎日。気を抜いたら、僕という存在は今にもばらばらになってしまいそうだった。

そんなある日、少女に出会った。

(中略)

そして、ある日唐突に、僕は選択を強いられることになる。
一人の少女を犠牲にして、世界を救うか。
世界を見捨てて、一人の少女を救うか。

 非常にわかりやすくありがちで典型的なボーイミーツガールでワールドエンドな小説で、要するに”いつもの三秋縋”であり、最高である。

 といっても、いつもの三秋さんである、というのは決して悪口でも文句でもない。よくある言い方をすれば実家のような安心感というやつである。

上記は読後にツイートしたもの。

”手癖に任せてのびのびと書いた作品”であると印象を語っているとおり、この作品に関していえば、三秋さんとしても肩の荷を下ろしてかいているように感じた。
どことなく普段の文庫本で読むのとは雰囲気が違う。どちらかといえば、デビュー作以前の作品や普段の三秋さんのツイッターに似ている。

では、どういう点が似ているんだろうか。

まず、三秋さんのデビュー以前の話。
三秋さんは処女作『スターティング・オーヴァー』デビューする以前、2ちゃんねるや自身のウェブサイト(fafoo)上にて作品を発表する形式で活動されていた。

 

で、「げんふうけい」名義の作品と三秋縋さんの作品の違いは何かというと、僕は単純に作品の長さだと思っている。

先に三秋縋としてデビューしたあとの作品について述べると、作品として「とてもよくできている」。


一冊の文庫本として成立する作品のボリューム感、長編小説という器に耐えうる奥ゆきだったり、あとは担当編集者さんのアドバイスなどが加わって「三秋縋」の作品が成り立っているんだろう。
どことなくよそ行きの雰囲気がある。

 

「三秋縋」がよそゆきなのだとすれば、「げんふうけい」の作品はどことなく内側を向いている。
ウェブ上で公開しているのに「内向き」というのは変な話だけれど、あくまで自分の世界で完結している感じがある。
単純に文章量の制約がない。短くてもいいし長くてもいい。題材も語り口も話の結末も縛られない。何をきっかけに書いてもいい。そういう意味で「のびのび」と書かれていたように思う。

つまり、『夢が覚めるまで』に関しては、どことなく「げんふうけい」名義のような、のびのびさがある。そういう点において似ていると僕は言いたいわけだ。
それは作品の流通経路によるものかもしれないし、原案・loundrawさんの「二次創作」のような作品であるという経緯によるものかもしれない。

いずれにせよ、「こういうものが書きたかった」という三秋さんの衝動を散りばめたかのような登場人物設定と世界観、結末である。

ただ、それでも「げんふうけいらしい」ではなく「三秋縋らしい」と僕が思ったのは、
げんふうけい名義で活動されていたころよりも、もっと手触りのしっかりとした物語を立ち上げているように感じたからだと思う。

もっとも、このあたりの肌感覚は実際に読んでいる方にしか上手に伝えられないポイントではある。

 

まあ、ここまで偉そうに書いてきたけど、原画展の図録も手に入れてないし対談も読んでないし、僕は三秋縋さんとは何の関係もない人間なので、全然的外れのことを書いてる気がしないでもないけどな!

 

なんとなく、「ちゃんとした作品」になる気もする。

この『夢が覚めるまで』はメルカリやヤフオクで定価の2倍くらいの価格で販売されているらしくって、それでも買い手がたくさんついているらしい。
まあ実際会場限定グッズだし、僕だっていざとなればその手の転売グッズに手を染めるのもやぶさかではないと思っていただけに、この展開も分からなくもない。


ただ、それでも偶然たまたま運のめぐりあわせで大変ありがたいことに読ませてもらった立場からすると、ネットで定価よりも高い価格を出して手にいれる必要はない気がする。少なくとも今は。

妄想の領域を出ないのだが、この作品に関してはもうすこし「ちゃんとした作品」として手が加えられて、もっと広く世に出回るんじゃないだろうか。
それが小説なのか劇場作品なのか、あるいはこの作品を底本にした全く別の作品になるのかは僕には皆目見当がつかない。

ただ、それだけのエネルギーや余白をもった作品であるように僕が感じたにすぎない。

 

現時点では正規ルートでは入手できない作品になってしまうので万人に進められないのが惜しくて仕方がない。
ただそれでも、こうして備忘録を書かずにはいられないような作品だった。

ちなみに、
loundraw×三秋縋 作品としては、「あおぞらとくもりぞら」という小説がpixivで連載中である。

www.pixiv.net

また、僕がここまで述べてきた三秋縋さんの今現在の作品を存分に楽しむなら、昨年発売された『恋する寄生虫』を推したい。

 

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

恋する寄生虫 (メディアワークス文庫)

 

 

さらに余談だけれど、三秋縋さんの小説『三日間の幸福』を田口囁一さんがコミカライズされた『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』の書評を、「きんどう」さんに掲載していただいた。

kindou.info

もしもよかったらこちらもぜひ目を通していただければ幸いです。

男子トイレでひったくりを恐れるべきか問題

男子トイレでひったくりに遭うケースを聞いたことがないので、ずっと疑問に感じている。

 

そもそも公衆トイレ、特に男子トイレといえばその街の治安の鏡である。
フリーダムな人間によってフリーダムに使用されているため、たいていの場合は破滅的な状態に陥っている。特に大阪は本当にだめダメだ。
誰もがついお世話になっている一方で、誰もが使いたくない場所、それが公衆トイレだ。

 

それでも我々はそれでも水を飲まないと生きてはいけず、公衆トイレを頼らねばならない。
パンパンに膨れ上がった膀胱の捌け口を探して、直立二足歩行で歩き回らねばならない。我々はみな哀れな膀胱の奴隷だ。


今日もどこかでTOTOやLIXILの社員が、我々の膀胱や排泄器官の存在を嘲り笑いながら乾杯をしているに違いない。

 

僕たちは、みんな公衆トイレを使う。
男子トイレというのはおおよそのパターンが決まっている。
小便器がいくつか並び、その上に荷物を乗せるお情け程度の棚がある。

人々は無意識に小便器を一つ飛ばしで開けて使用する。


これが女子にはわからない男のマナーだ。止むを得ず、並んで小便器を使ってしまった時のパーソナルプレイスの侵害感、申し訳なさは筆舌尽くしがたいものがある。

 

で、問題にしたいのは、その排尿時の荷物の安全である。
このブログを読んでいる人は、排尿時の荷物について気にされたことはあるだろうか?
例えば、荷物棚が広ければ棚に置くだろうが、そうでなければ肩にかけてお尻に回して排尿する、なんてこともないだろうか。
あるいは、ポケットに財布をいれたまま排尿するとか。

時々、僕たちはとても恐ろしいことをしているのではないのかと感じるときがある。
なぜか?

排尿時の僕らは余りにも無垢で、無邪気で、無防備だからだ。


想像してみてほしい。
もしもあなたがパンパンに膨らんだ水風船のような膀胱を必死でなだめすかしながら、男子トイレに駆け込んだとしよう。
1秒でもはやくチャックを開放し、首尾よく砲身を抜き取り、照準を定めて放たねばならない。
勝負は一瞬だ。この作業はすべてのスナイパーに取って集中して行われる作業である。

しかし、我々の想像上の敵は、おそらくこの一瞬を逃さない。

スナイパーとしてのあなたのプライドが小便器に向かったその一瞬、あなたは完全に無防備になる。
敵はあなたの荷物を軽く眺めて品定めする。

そして次の瞬間、あなたのバックポケットから財布をあるいは棚のかばんを持っていく。

そのときあなたは動けるだろうか?

 

素早くひったくり被害にあった自分の状況を把握し、
止まらない自らの砲身を抑え、撃ち方をやめ、その後全力で犯人を追えるだろうか?
あるいは、止まらないその波動砲を打ち続けたまま、ためらわず振り返り、犯人が逃げる前に確保できるだろうか?
おそらく、すぐに答えはでないだろう。たとえ
想像の中と言えども。

 

だから、僕はいつも恐れている。
もしも、公衆トイレで小便している時にひったくられたら、僕は小便垂れ流して追いかける勇気はあるのだろうか。
おそらく、僕はプライドのために荷物を捨ててしまうだろう。

それでも僕は今日も公衆トイレを使い続けている。使わざるを得ない。
自分の周りにトイレでひったくりをするダークサイドの犯罪者はいないと信じながら。

 

 

この街を信じながら僕は生きていく。
公衆トイレを使い続けていく。